参加費: 一般 1,500円、学生 500円
飲み物(コーヒー/紅茶)が付きます
カフェの内容
ベルクソンカフェでは、フランス語のテクストを読み、哲学することを目指しています。前々回から、現代フランスの哲学者
マルセル・コンシュ(
Marcel Conche, 1922-2022)を取り上げていますが、今回は質問に答える形で構成されている『生きることと哲学すること』(
Vivre et philosopher, Poche, 2011)の中にある、まえがき、序文、第7章「あなたはどういう意味で“唯物論者”ですか」(En quel sens êtes-vous matérialiste ?)を読むことにいたしました。
参加予定者には予めテクストと訳文をお送りいたします。議論は日本語で行いますので、フランス語の知識は参加の必須条件ではありません。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。
参加希望の方は、she.yakura@gmail.com までお知らせいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
会のまとめ
今回も
マルセル・コンシュ(1922
–2022)の著作を読むことにした。
選んだのは、Vivre et philosopher『生きることと哲学すること』という2011年の著作で、ルシル・ラヴェッジというコロンビア大学パリ分校の哲学者の質問に答える形でまとめられている。20年前(1991年)にも同様の質問に答えているが、基本的なところは変わっていないという。ただ序文において、唯物論に対する見方は変わったとして、次のような議論を進めている。
ものことの起源に精神を置く観念論、有神論、唯心論には反対するという意味で唯物論の陣営に属するが、正真正銘の唯物論者ではないと自らを規定している。その理由として、以下の点を挙げている。
1)「人間は自然(ギリシア人が言う無限で永遠ですべてを包摂するピュシスの意味における)の一部である」とは言えるが、「人間は物質の一部である」とは言えない。
2)すべての人間にとって根本的で普遍的な自然の経験はあるが、物質の経験はない。
3)唯物論者に物質とは何かと問うと、それに答えるのは科学であるという答えが返ってくるが、その時、哲学は「科学の侍女」(ancilla scientiae)になっている。
4)唯物論者は自由意志を否定しがちであるが、何らかの判断をする場合、その原因が基準になるとすれば、真なるものを基準とした判断はどうなるのだろうか――真理は原因ではない。なぜなら、真理はこの世界にないからである。
5)唯物論者にとっての道徳は、社会学的、歴史的説明に属する事実である。そのため、道徳の基礎がしっかりしていないと、各人が自分の道徳が持ち出すことになる。コンシュにとっての道徳は人権の道徳ただ一つで、これは何人も従わなければならない。これが崩れると、独自の道徳を持ち出すナチや人種差別主義者が出現することになる。これは現代的なテーマにもなるだろう。
6)物質という概念は現実/実在の全体を支えるにはあまりにも貧しいが、自然という概念にはそれができる。すべてを生み出す無限の自然は、存在するすべての第一原因であり、それは取りも直さず生命なのである。
これらの点をベースにして、どのような意味で自分は唯物論者なのかを論じたセクションを読んだ。
まず、コンシュの弟子であるアンドレ・コント=スポンヴィル(1952–)の「哲学的唯物論は幸福の倫理に至る」という言葉を引用して、自分の倫理(人生における活動の目的)は幸福ではないとしている。唯物論を支持すると、超越性はなくなるためこの世がすべてになり、それが現世における幸福を追求する幸福主義に陥るのだとすれば、コンシュの良心に反するという。そして、自分の居場所は唯物論者の中にあるのかと自問する。
そこから、自分は何ではないのかと問いを変える。プラトン的な意味でも、主観主義的な意味においても「観念論者」ではない。また、ジョージ・バークリー(1685–1753)のように、物質は観念に過ぎないとする「非物質主義者」でも、精神が自然とは独立して存在し得るとする「唯心論者」でもない。もちろん、「有神論者」でも「汎神論者」でもない。「神」という言葉が人格を指している限り、それは死への恐怖から生まれた文化的現象に過ぎない宗教に属しているからである。また、汎神論は神の人格性を否定し、神を世界と一体化させるが、それは存在の統一性を前提としている。しかしコンシュは、実在的統一を欠いた「破砕された実在」こそが世界であるとして、統一原理を否定している。
この「・・・ではない」ところの反対にあるのが唯物論であり、精神の捉え方が唯物論と同じなので、自分は唯物論の陣営に属していると考える。アンドレ・コント=スポンヴィルも「唯物論はその最大の射程において考えるならば、精神の理論である」と言っているという。これはどういう意味なのだろうか。まず、精神は精神在らしめる非精神が前提となる。その最も近いものが生命である。思考する存在はまず生物であるが、生命もその存在のためには非生命が前提として必要になる。このように、生命や精神の前提となり、それらを生み出すものを「物質」と呼ぶのであれば、すべてに生命が宿るとする「物活論」は認められない。まとめると、無生物からいつの日か生命が誕生し、無意識に生きている生命から意識的生命が出現し、やがて思考や省察をする生命が生まれる。これこそが唯物論ではないかとコンシュは言う。まさに、現代科学が考えているスキームである。
ただ、いくつかの重要な点で、唯物論に同調しかねるところがあるという。まず、唯物論はその他すべてを排除する真理を含んでおり、独善主義的なところがある。哲学者という者、すべからく懐疑的でなければならない。それから、哲学知があるとすれば、哲学者の間で普遍的な命題についての同意がなければならないはずだが、あるのは可能性だけである。観念論もあれば、唯物論もあるのだが、相互に排除できない。コンシュは「絶対悪」の存在から有神論に異議を唱えるが、その論証は決定的ではない。論証は証明ではないからである。哲学的命題は証明可能であると考えた
スピノザ(1632–1677)も、哲学者の不一致に終止符を打つことができると考えた
カント(1724–1804)も、完全に論駁することも同意することもできないのが哲学の本質であるということを見ていなかった。最終的にどの哲学的可能性を選ぶのかは、偏に人格と人生に対する態度が関わってくる瞑想にかかってくる。コンシュが有神論を否定するのは、そのような仮説の下では意味ある人生を営むことができないと考えたからだという。
唯物論的存在論には、まだ納得できない点があるという。それは、「存在」という概念を素朴にしか捉えていないことで、
エンゲルス(1820–1895)や
レーニン(1870–1924)のように、「物質」「自然」「存在」を明確に区別しないで語っている点である。ギリシア人にとっての存在は、
プラトン(427–347 BCE)の「イデア」や
エピクロス(341–274 BCE)の「原子」のように、時間の支配を受けず、永遠の自己同一性を維持するものである。しかし、コンシュが考える存在は、科学が究極だという物質の構成要素も限られた寿命しかないので、存在というよりはむしろ過程と言うべきものである。生命と精神の前提となる物質とは一体何なのだろうか。
唯物論者にとっての物質は科学が知らせてくれるものだが、その答えは揺れ動くことが稀ではない。暫定性こそが科学の確定的な状態だからである。しかし、哲学者は科学の答えを待たなければならない。唯物論者は自然科学の提灯持ちになっているが、哲学者は科学の言葉を借用する必要はないとコンシュは考えている。つまり、唯物論的な説明を信用していないのである。アンドレ・コント=スポンヴィルによれば、下位のものによって上位のものを説明するのが(精神を身体によって、生命を生命のない物質によって、秩序を無秩序によって)、唯物論の常道である。しかし、物質は生命を作り出すが、物質には生命は存在しない。同様に、身体は精神を「発明する」が、それは身体にないものである。原因以上のものが結果に現われている。これで説明になっているのだろうか。再度、自分は唯物論者なのか、そうではないのかと自問し、このような比喩で答えている。唯物論者の陣営にいるが、それは国民議会で無所属議員がある会派に属するような感じだという。
問題のある「物質」という言葉をどう扱えばよいのだろうか。それは自分自身にだけ依存しなければならない哲学者が、一人で決めなければならないのである。コンシュは、世界と生命について考える際に必要だと考えた時のみ、「物質」という概念を認めるという立場を取る。我々は、どのように生きているのか。それは永遠の生としてではなく、死すべき生として生きている。死の不安を背景に生きているのである。それでは、死とは何なのか。それは我々の存在の分解である。つまり、われわれは分解の原理を感じながら生きており、それは「物質」の原理と言ってもよいだろう。
精神は生物の偶然の産物であり、生命は無生物の偶然の産物である。生命の前に非生命があり、生命の後にも非生命がある。つまり、最終的な審判を下すのは、生命でも精神でもなく、死だけである。記憶ではなく、忘却である。唯物論が物質の哲学であるので、死の哲学を意味しているという点で、コンシュは唯物論に属しているとして、このエセーを終えている。
一神教の神は否定され、救いがないように見えるが、そこでニヒリズムに向かうのではなく、存在の有限性を深く理解することにより、生に対する真剣さを獲得することができるのではないだろうか。これは
ハイデガー(1889–1876)などの実存哲学にもつながる方向性である。さらに言えば、最後に死と忘却しか残らないとしたときに、単に唯物論に属すると言うだけでよいのだろうか。そこを生きるための新たな哲学が求められているのではないだろうか。
参加者からのコメント
◉ コンシュさんのテキストを講読する機会を与えていただき、ありがとうございました。「、、、ではない」文が続く独特の文章でしたが、一種の瞑想文でしょうか。実は矢倉さんのエッセイはほとんど読んできたのですが、ハイデッガー論に入ってから遠ざかりました。全く合わないのです。丁度そのころから体調がよくなくなり、長い文章を精読できなくなりました。幸い、柔軟体操の効果があったのか、体調は回復してきて、コンシュさんになった訳です。論評する以前にフランス語に接することが喜びでした。軽いエッセイなど読みたいですね。
◉ 短くコメントさせていただくと、コンシュの「意見に対する、否定のプロセス」の哲学は、どこか、 東洋のゴータマ・シッダールタの哲学に近いところがあるのかな、、、と、ディスカッションを聴きながら、ふと、思っていました。
◉ 「自然」とはなにか? 自然を理解することは私のテーマの一つです。コンシュは、彼が思考の基底におく自然(ピュシス)とは、「無限で永遠ですべてを包括するものを指している」としています。前回のベルグソンカフェでもこのコンシュの自然についての考え方が出てきましたが、彼のいう無限とか自然という概念を捉えきれずに少し戸惑っていました。最近、矢倉先生がISHEから出版された「生きるための哲学」を読みながら気が付いたことがあります。ここでは3人の哲学者、アドー、コンシュそしてバディウの哲学への姿勢とその取り組みが要約されていますが、コンシュの自然に対する考え方が、アドーやバウディウとは違い、独自のものであるということです。コンシュが農家で生まれ育った環境が少なからず彼の思考体系に影響を与えているのではないかと思いました。晩年もアン県のトレフォールという自然豊かな環境の地を選んでいることからもそう感じます。
コンシュは自然を、しかし宇宙物理学的な「宇宙」ではなく、無限に生成し続ける根源的な力であるとしました。自然は第一原因であり、他に依存せず、永遠に生成し続け、生と死の循環を生み出すもので、コンシュにとっては宇宙も自然の一形態であるということなのでしょうか。自然の根源的な生産力を彼は「生命」と呼んでいます。この生命も、形而上学的な生命(生命を生み出す原理)と生物学的な生命(自然の中で非生命から出現した生命)があり、そこから意識・思考が生まれるとします。このコンシュの自然に対する考え方は、それまでの私の自然の認識にはなかったもので、この自然観を基底に置いて思考するとはどのようなことなのか、本書を読み進めば、私の理解がすすむのかもしれませんが、現状は、まだ自分の理解とはなっていません。
今回、読んだまえがきの部分では、コンシュの唯物論に対する考え方と自らの立ち位置について記述が主題となっていました。コンシュの説明は、持論を決定論的に展開して結論を提示するようなやり方ではなく、自らの考えを多角的に展開し、それらを組み立てなおしながら「説明」を加え、最終的には読者に判断を促すというような、多分、日本人には少ない議論の展開方法なので判断に戸惑う部分が何カ所かありました。そして、コンシュは「自分は唯物論の側にはいるが唯物論者ではない」との自らの立ち位置を示しています。コンシュは、精神は生命に依存し、生命は非生命に依存するという点では唯物論者である。しかし、唯物論を否定する理由として、物質は経験できない概念であること、真理判断を物理的原因に還元できないこと、道徳の基礎を説明できないこと、そして唯物論が他の可能性を排除する独断論であることをあげていて、哲学とは証明された真理を構築する学問ではなく、複数の可能性の中から自分の生の姿勢を選びとる営みであるとしています。
冷静で純粋なコンシュの結論は、「生命は無生物的自然の偶然の産物である。生命の前に非生命があり、生命の後にも非生命がある。最後にものをいうのは精神でも生命でもなく、死である。そして、常に残り続けるのは記憶ではなく、ただ忘却のみである」としています。妥協のない、身も蓋もない結論のように思えます。しかし、だからこそ、私たちの「僅かな存在」の意味を考え、よく生きることがいかに大切なことであるかを含意した結論であるように、またそこにコンシュの人柄が現れているように私には思えました。貴重な時間をありがとうございました。
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