今回は前回に引き続き、ジャン・フランソワ・マッテイ(Jean-François Mattéi, 1941-2014)による『古代思想』(La pensée antique, PUF, 2015)を読む予定です。具体的には、第1章「ソクラテス以前の哲学者」(Les présocratiques)にあるパルミニデス(c. 520-c.450 BC)がテーマとなります。 参加予定者には予めテクストをお送りいたします。議論は日本語で行いますのでフランス語の知識は参加の必須条件ではありません。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。
*第12回サイファイカフェSHE札幌(2024年10月19日開催)において、パルメニデスが取り上げられました。参考までに、リンクを貼り付けておきます(発表スライド)。
申込み先: 矢倉英隆(she.yakura@gmail.com)
会のまとめ
今回のテクストのタイトルは、「パルメニデスと『方法』(méthode) の発明」となっている。méthode という言葉は、ギリシア語で「明確な方向性に沿った道」を意味する methodos に由来する。「道」は hodos で、それに先行して「後に、さらに先へ」を意味する meta が付いて methodos になり、「我々の推論をさらに深め、前進させることができるもの」という意味になる。後に、デカルトが『方法序説』でこの言葉の重要性を示したことは、つとに知られている。
パルメニデスは、紀元前6世紀終わりに生まれ、5世紀中頃に亡くなったエレア派の最も知られた思想家である。彼は『自然について』(ペリ・ピュセオース)という詩(19断片、160行だけが残されている)で表現した世界は、「全ては流れる」(panta rhei)という言葉でこの世界の本質を表現したヘラクレイトスと対を成している。パルメニデスは、感覚で捉えられる物理的な運動は見かけ(仮象)に過ぎず、それを追っているかぎり現象の奥に潜む宇宙の究極の構造に達することはできないと考えた。ただし、我々が日常的に経験する運動の存在を否定したわけではない。
全体についての知、すなわちこの宇宙の知に至るためには二つ道(方法)しかないという。第一の道は、自己同一性の視点から、「存在は存在である」と考えることである。これはトートロジー(同語反復)で、数式で表せば A=Aとなる。第二の道は反対に、「存在は存在ではない」と主張するもので、より深い現実においては、そうであるところのものとは違うものであり得るとでも考えているかのようである。このようにパルメニデスは、プラトン、プロティノス、ヘーゲル、ハイデガー、サルトルの遥か以前に、「存在」と「無」は両立し得ないことを示し、「存在」と「無」の弁証法を編み上げた。この対立のゲームは、ソクラテス以前の哲学者の中心にあった問題である。それ以降、哲学者や小説家や芸術家は、ものことはそのままの姿ではなく、その背後に複雑で変化するものが潜んでいるということを示そうとしてきた。その一例としてマッテイは、スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』を挙げている。この小説は、一人の人間が自分自身であると同時に、その反対のものでもあることを示そうとした。
第二の「非存在」の道は「無」に迷い込む可能性があり、誤謬の道でもあるので、パルメニデスは避けなければならないと警告を発する。存在しないものについて考えることも語ることもできないからである。パルメニデスにとって、「存在」は始めも終わりもなく、分割不能で、それ自身に等しく、完全な球体のイメージである。さらに第3断片では、「思考」と「存在」は同じものだという。人間の思考は存在に刻印されているので、何ものも思考を逃れるものはない。人間の知に開く運動の中で、我々はすべてを把握できるという。
詩の第二部では、「意見」(ドクサ)の道が語られる。これはヘラクレイトスの世界にいる盲目で眠りについている人間たち(パルメニデスの言葉で言えば「死すべき者たち」)が没頭する道で、もはや「存在」を持ち出すことはない。彼らは、揺れ動き、変容し、生成する世界に満足している。しかしパルメニデスは、このような絶え間ない変化には、永続性の遥か彼方の痕跡が記憶として保存されているという。何という展開だろうか。どれだけ変わりやすいとしても、「意見」は「存在」の安定性はないが、実際には「存在」と同じくらい永続性があると言うのである。「生成」とは、存在することを止めることなく生成する過程にある「存在」のイメージだという。ニーチェは、人間の力への意志が、「生成」に「存在」の性質を押し付けることがあると主張している。これはパルメニデスの教えとヘラクレイトスの教えを和解させようとする試みではないのか。この見方は、札幌の会で紹介したマルセル・コンシュの言葉とも重なってくる。つまり、永遠の真理(「存在」)を背景として流動する世界(「意見」)が展開しているという見方である。
「意見」に関する第二部は、「生成」に基づく知(すなわち物理学などの科学知)は、決して正確なものにはならないということをほのめかしている。つまり、それがどれだけ優れた人間のものであっても、人間の意見だけに基づいた知は、決して絶対的で、普遍的で、決定的な真理には至らないということである。科学の歴史を振り返っても、ある時期に真理だとされていたものが後の時代には崩れ去ることが頻繁に起こっている。ということは、科学は「意見」のレベルにとどまるもので、万物の普遍的な源泉である「存在」――それは不変の真理である――には到達できないことを意味している。今回のテクストはまた、科学の生み出す知は仮の知に過ぎないことを紀元前5世紀のパルメニデスは知っていたことを示していると言えるのではないだろうか。
質疑応答ではいくつかの問題が提起されたが、ここでは2点だけ紹介したい。
まず、パルメニデスの弟子ゼノンが「アキレスと亀のパラドックス」を出して、物理的で感覚的な運動は単なる見かけに過ぎず、現象の本質(一度確定されると変わることのない宇宙の究極的な構造)には触れないと考えている、という点についてであった。見かけ上ではアキレスは亀を追い抜くのだろうが、純粋に論理的に考えるとそうではなくなるということは、アキレスが亀を追い抜けないということが本質だとゼノンは考えているのかという疑問が出された。会の中では明確なところに辿り着かなかったのだが、見かけ上の現象には論理的に考えると矛盾を含むことがあるということを指摘することにより、見かけの現象の不確実性、あるいは本質との間に横たわる隔たりを強調したかったのではないか、というところに今回は留めておきたい。
それから、思考と存在が同一であるということの解釈が問題になった。これが何を意味しているのかについてはいろいろな解釈があることは札幌の会でも紹介した。今回のテクストにあった「思考が我々を取り囲むものに刻印されている」という表現について議論があった。そのまま解釈すると、思考が存在の中にある(思考=存在)ということになるが、もしそうだとすれば思考する能力が存在にはあるのだということで、汎心論的世界を想起させる。それに対して、思考というのはあくまでも人間の思考で、それが外のものに投影されるのだとする見方も出された。
(まとめ:2024年11月7日)
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