10-BC ソクラテス以前の哲学者-3



第10回 ベルクソンカフェ


テーマ: J・F・マッテイの『古代思想』を読む(3)
Jean-François Mattéi, La pensée antique (PUF, 2015) 

日 時: 2024年11月5日(火)18:00~20:30 

会 場:恵比寿カルフール B会議室


会費: 一般 1,500円、学生 500円
(コーヒーか紅茶が付きます)


カフェの内容

今回は前回に引き続き、ジャン・フランソワ・マッテイ(Jean-François Mattéi, 1941-2014)による『古代思想』(La pensée antique,  PUF, 2015)を読む予定です。具体的には、第1章「ソクラテス以前の哲学者」(Les présocratiques)にあるパルミニデス(c. 520-c.450 BC)がテーマとなります。 参加予定者には予めテクストをお送りいたします。議論は日本語で行いますのでフランス語の知識は参加の必須条件ではありません。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。 

 *第12回サイファイカフェSHE札幌(2024年10月19日開催)において、パルメニデスが取り上げられました。参考までに、リンクを貼り付けておきます(発表スライド)。

申込み先: 矢倉英隆(she.yakura@gmail.com)


会のまとめ




今回のテクストのタイトルは、「パルメニデスと『方法』(méthode) の発明」となっている。méthode という言葉は、ギリシア語で「明確な方向性に沿った道」を意味する methodos に由来する。「道」は hodos で、それに先行して「後に、さらに先へ」を意味する meta が付いて methodos になり、「我々の推論をさらに深め、前進させることができるもの」という意味になる。後に、デカルトが『方法序説』でこの言葉の重要性を示したことは、つとに知られている。

パルメニデスは、紀元前6世紀終わりに生まれ、5世紀中頃に亡くなったエレア派の最も知られた思想家である。彼は『自然について』(ペリ・ピュセオース)という詩(19断片、160行だけが残されている)で表現した世界は、「全ては流れる」(panta rhei)という言葉でこの世界の本質を表現したヘラクレイトスと対を成している。パルメニデスは、感覚で捉えられる物理的な運動は見かけ(仮象)に過ぎず、それを追っているかぎり現象の奥に潜む宇宙の究極の構造に達することはできないと考えた。ただし、我々が日常的に経験する運動の存在を否定したわけではない。

全体についての知、すなわちこの宇宙の知に至るためには二つ道(方法)しかないという。第一の道は、自己同一性の視点から、「存在は存在である」と考えることである。これはトートロジー(同語反復)で、数式で表せば A=Aとなる。第二の道は反対に、「存在は存在ではない」と主張するもので、より深い現実においては、そうであるところのものとは違うものであり得るとでも考えているかのようである。このようにパルメニデスは、プラトンプロティノスヘーゲルハイデガーサルトルの遥か以前に、「存在」と「無」は両立し得ないことを示し、「存在」と「無」の弁証法を編み上げた。この対立のゲームは、ソクラテス以前の哲学者の中心にあった問題である。それ以降、哲学者や小説家や芸術家は、ものことはそのままの姿ではなく、その背後に複雑で変化するものが潜んでいるということを示そうとしてきた。その一例としてマッテイは、スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』を挙げている。この小説は、一人の人間が自分自身であると同時に、その反対のものでもあることを示そうとした。

第二の「非存在」の道は「無」に迷い込む可能性があり、誤謬の道でもあるので、パルメニデスは避けなければならないと警告を発する。存在しないものについて考えることも語ることもできないからである。パルメニデスにとって、「存在」は始めも終わりもなく、分割不能で、それ自身に等しく、完全な球体のイメージである。さらに第3断片では、「思考」と「存在」は同じものだという。人間の思考は存在に刻印されているので、何ものも思考を逃れるものはない。人間の知に開く運動の中で、我々はすべてを把握できるという。

詩の第二部では、「意見」(ドクサ)の道が語られる。これはヘラクレイトスの世界にいる盲目で眠りについている人間たち(パルメニデスの言葉で言えば「死すべき者たち」)が没頭する道で、もはや「存在」を持ち出すことはない。彼らは、揺れ動き、変容し、生成する世界に満足している。しかしパルメニデスは、このような絶え間ない変化には、永続性の遥か彼方の痕跡が記憶として保存されているという。何という展開だろうか。どれだけ変わりやすいとしても、「意見」は「存在」の安定性はないが、実際には「存在」と同じくらい永続性があると言うのである。「生成」とは、存在することを止めることなく生成する過程にある「存在」のイメージだという。ニーチェは、人間の力への意志が、「生成」に「存在」の性質を押し付けることがあると主張している。これはパルメニデスの教えとヘラクレイトスの教えを和解させようとする試みではないのか。この見方は、札幌の会で紹介したマルセル・コンシュの言葉とも重なってくる。つまり、永遠の真理(「存在」)を背景として流動する世界(「意見」)が展開しているという見方である。

「意見」に関する第二部は、「生成」に基づく知(すなわち物理学などの科学知)は、決して正確なものにはならないということをほのめかしている。つまり、それがどれだけ優れた人間のものであっても、人間の意見だけに基づいた知は、決して絶対的で、普遍的で、決定的な真理には至らないということである。科学の歴史を振り返っても、ある時期に真理だとされていたものが後の時代には崩れ去ることが頻繁に起こっている。ということは、科学は「意見」のレベルにとどまるもので、万物の普遍的な源泉である「存在」――それは不変の真理である――には到達できないことを意味している。今回のテクストはまた、科学の生み出す知は仮の知に過ぎないことを紀元前5世紀のパルメニデスは知っていたことを示していると言えるのではないだろうか。


質疑応答ではいくつかの問題が提起されたが、ここでは2点だけ紹介したい

まず、パルメニデスの弟子ゼノンが「アキレスと亀のパラドックス」を出して、物理的で感覚的な運動は単なる見かけに過ぎず、現象の本質(一度確定されると変わることのない宇宙の究極的な構造)には触れないと考えている、という点についてであった。見かけ上ではアキレスは亀を追い抜くのだろうが、純粋に論理的に考えるとそうではなくなるということは、アキレスが亀を追い抜けないということが本質だとゼノンは考えているのかという疑問が出された。会の中では明確なところに辿り着かなかったのだが、見かけ上の現象には論理的に考えると矛盾を含むことがあるということを指摘することにより、見かけの現象の不確実性、あるいは本質との間に横たわる隔たりを強調したかったのではないか、というところに今回は留めておきたい。

それから、思考と存在が同一であるということの解釈が問題になった。これが何を意味しているのかについてはいろいろな解釈があることは札幌の会でも紹介した。今回のテクストにあった「思考が我々を取り囲むものに刻印されている」という表現について議論があった。そのまま解釈すると、思考が存在の中にある(思考=存在)ということになるが、もしそうだとすれば思考する能力が存在にはあるのだということで、汎心論的世界を想起させる。それに対して、思考というのはあくまでも人間の思考で、それが外のものに投影されるのだとする見方も出された。




(まとめ:2024年11月7日)


参加者からのコメント


◉ パルメニデスは難解でしたが、皆さんの議論を聞くことで整理できた気がします。
11/5(火)の議論では、ゼノンの有名なアポリア(日本語資料p2)がなぜ、そしてどのように言及されているのか、が大きな問いの一つであったように思いますし、自分にとってもそうです。

今回の議論を受けて二つの解釈の可能性があると思います。まずは、文字通り「アキレスが亀を追い越せること」は見かけ上の運動であり、「亀を追い越せないこと」が見かけ上ではない真実の運動であるという読み方です。とするならば、「亀を追い越せないこと」が本当の運動の在り方だと考えられます。つまり、先に配置してあるもの(亀)を、後に配置されたもの(アキレス)は永遠に追い越すことができないという法則。

これは、マッテイ氏の「一度決定されると変わることのない構造」という説明と合致しますが、しかしながら、このことを「宇宙の究極的な構造」とまで言い切っていいのかは疑問が残りました。つまりマッテイ氏は「アキレスが亀に追いつけない」ことを「宇宙の究極的な構造」の例として取り上げたいがために、ここでゼノンのパラドックスに言及したのでしょうか?

そうでない可能性を模索するならば、もう一つの解釈が出てきます。それは論理的な展開では相反する二つの結論が出てしまい、人間の理性の限界に到達するという考え方です。この問題をカントはアンチノミーとして考えました。「アキレスが亀に追いつけること」も「アキレスが亀に追いつけないこと」もそれ自体は説得力のある説だと思われます。が、問題はこの二つが同時に考えられる契機に至った場合です。そうすると相互に矛盾する結論に出合うことになり、これを真理と認めることは到底できません。

以上を踏まえると、マッテイ氏は、むしろ以下のことを強調したかったのではないかとも思います。すなわち、推論だけでは(カントが挙げた4つのアンチノミーのように)矛盾に遭遇し、「宇宙の究極的な構造、すなわち一度決定されると変わることのない構造には(人間による推論の営みは)何の影響も与えない」、つまり人間理性が宇宙の深奥に到達しえないことを。少々飛躍がありますが,,,第一の解釈が人間の推論の二つの可能性という次元で考えているのに対して、第二は理性の到達不可能性まで視野に入れて考えています。第一が理性的解釈であるのに対して、第二は(理性そのことについてメタ的に考えているという意味で)理性論的解釈です。



◉ 第10回ベルクソンカフェに参加した感想:

フランス語のテキストは、矢倉さんがフランス語で読みながら和訳を語ってくださった。そのスタイルは、好ましく嬉しいものであった。ただ、配布テキストの(第1章)全4セクションのうち、最後の第4セクション(「存在、意見と生成」)の後半が、読み残しになった。なにぶん、18:00~20:30という限られた時間内である。

では、せっかくだから最後の章も終わりまでフランス語原文テキストで皆で読み終わりたいならば、どうしたらよいだろうか。そこで提案である。

 ①フランス語のテキストとその和訳を読み合わせる回と、
 ➁テキストのテーマについて対話トークをする回の2回に分けてはどうだろうか。

前後は、もちろん、①が先で②が次に続く順序で。もちろん、遠くから遠路参加して来られている参加メンバーの方がいることは承知しています。とはいえ、
 ・読み合わせも対話トークも両方とも大変有意義である。回(会)のテーマを理解するために対話トークで語り合うのがそもそもベルクソン・カフェの主旨なのだろうと思います。
 ・フランス語テキストのテキストの対訳読み合わせは、先に開催して来られる人が来て矢倉さんの対訳講義に参加する、(対訳講義の内容は➁だけに参加する人にも還元する)というのは、どうでしょう。そうすれば、
 ・対訳講義は、時間内に十分に完結出来て、
 ・「テーマの概念を理解するために繰り広げられる」対話トークの時間も(別口の二時間半で)確保できるだろうと思います。

「パルメニデス」の回を2回(①と➁)に分けて開催すれば、私ならば、両方参加したい。実を言うと、私は、パルメニデスの“「ある」の存在論”を、「A Ha!」と腑に落ちるほど理解できる自信がないままに11/5の会に参加して、会が終わった後も「A Ha!」とは来ていないのです。ですが、会に参加してこの会を「大変おもしろい」と感じる体験となりました。なにに「おもしろい」と感じたかといういと、矢倉さんと参加者が対話しているのを同じ場にいて目の前で聞けることでした。そうした対話を聞いているうちに、私にも「A Ha!」と腑に落ちる瞬間が来るかもしれないと淡い可能性を妄想したからです。生きた「対話」を聞く体験が産婆役となって、私にも「A Ha!」と腑に落ちる瞬間が来るかもしれない。そんな期待感が。

プラトンの著作は、対話篇という形式で著述されているものが多いそうです。目の前の生きた対話を聞いたり、その対話に自分が参加できることは貴重です。誰かと誰かの間の対話トークを聞いているときに「A Ha!」と腑に落ちるときが訪れるかもしれません。

 ・対話をメインにした「対話トーク」の回を設けたら、それこそ、パリのオープンカフェで、コーヒー片手に対話している気分で、自由に、自分が「(その回の)テーマ」の理解のために着想したイメージを披露し論じあったらどうでしょう。

もちろん、そのつもりで企画されているベルクソン・カフェだと承知していますが、参加者としては、一つのテーマに、二回目の会を設けても三回目の会を設けていただいても嬉しいですよ。今回のテーマ“「ある」の存在論”については、少なくとも二回目は設けていただけたら有難いと感じました。だといいな。そう感じた、初めての参加の感想でした。

P.S. フランス語の原文テキストを声に出して読む、声に出して読む響きを聞くという体験は、いい体験だと思うのです。聞けて、会に参加してやっぱりよかったと感じました。その点についてのコメントは次回に。



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