第12回ベルクソンカフェのご案内
マルセル・コンシュの哲学(2)
『形而上学』の「まえがき」と「プロローグ」を読む
Marcel Conche, Avertissement & Prologue, Métaphysique (PUF, 2012)
講 師: 矢倉 英隆(サイファイ研究所ISHE)
日 時: 2025年11月5日(水)18:00:00~20:30
会 場:恵比寿カルフール B会議室
渋谷区恵比寿4丁目4―6―1 恵比寿MFビル地下1F
参加費: 一般 1,500円、学生 500円
飲み物(コーヒー/紅茶)が付きます
カフェの内容
ベルクソンカフェでは、フランス語のテクストを読み、哲学することを目指しています。前回取り上げた現代フランスの哲学者マルセル・コンシュ(Marcel Conche, 1922-2022)が書いた『形而上学』(PUF、2012)を読みながら、彼の目から見える哲学、形而上学の姿をシリーズで概観することにいたしました。今回は「まえがき」と「プロローグ」を読み、コンシュが考える形而上学の概要を検討する予定です。
参加予定者には予めテクストをお送りいたします。議論は日本語で行いますのでフランス語の知識は参加の必須条件ではありません。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。
参加希望の方は、she.yakura@gmail.com までお知らせいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
会のまとめ
今回はマルセル・コンシュの哲学を扱う2回目の会になる。日本ではほとんど知られていないこの哲学者に興味を示す方がどれくらいおられるのかと思っていたが、5名の申し込みがあり、お一方が欠席された。お忙しいところ参加された皆様に感謝いたします。
これからシリーズになると思われるコンシュの『形而上学』を読む会の第1回では、「まえがき」と「プロローグ」を取り上げた。「まえがき」には、コンシュ自身の哲学のエッセンスが35項目に要約されている。2003年のアンドレ・コント=スポンヴィル(1952-)の質問に対する回答に、8年後改訂を加えたものが「まえがき」に列記されている。まず、この要点をまとめるところから始めたい。
第1に、現実の全体と全体の中にいる人間の位置に関する「自然の光による真理の探究である」(デカルト)と哲学を定義する。ここにある自然の光とは、太陽光のことではなく、神によって与えられている真理を把握する能力というような含みがある。デカルトの場合、明証性は神による保証が必要になると言われる。
第2に、哲学はよく言われるような幸福の探求でも、真理を所有する知恵の探究でもない。但し、哲学の条件として、内なる平和と、本質的ではないことへの無関心という知恵が必要になる。それなしには哲学に集中できないからである。
第3に、現実の全体を理解する試みは、形而上学と呼ばれる。形而上学は科学ではなく、哲学的知識でもない。一つの哲学は、理性だけではなく、人間のすべての能力を駆使して試みるものである。そのため、一つの哲学は一つの個性を刻印している。
第4に、現実の全体はいろいろな方法で考察できるため、いくつかの形而上学が可能である。どれを選択するのかは、科学のように証拠をもとにした論証によるのではなく、瞑想によって行われる。
第6に、一神教の神を排したコンシュは、自然を中心に据える。自然はすべてであり、その他には何もない。無限なのである。自然は一つの存在としてあるのではなく、「存在」そのものである。しかし、不変で決まり切ったものではなく、生成・即興も排除されない。自然はすべてを包摂し、すべてを生み出す古代ギリシアの「ピュシス」であり、詩人なのである。
第7に、ピュシスの意味における自然を対象とした哲学は、形而上学には多数性があると言ったにもかかわらず、精神の合意が実現できるものでなければならないと言う。あるいは、このような合意には自然主義的な知恵が必要になるとコンシュは考えていた。この点については、少し考察が必要になるかもしれない。
コンシュが考える形而上学は、その人間が生きる中で形成されてきた確信のようなもの(その人間にとっての真理)に基づいて選択できるため、多数存在することが可能であり、それは認められるべきだとする。それに対して、万人に関連が出てくる自然についての哲学については、広い合意が必要になるのではないかというのがコンシュの立場のようである。適当かどうかは分からないが、第9に出てくる道徳と倫理との関係で考えると、道徳に当たるのが自然の哲学で、そこでは共通の認識が求められるが、倫理に当たる一般の形而上学では個人の選択が認められている。つまり、自然の哲学に同意した上で初めて、個々の形而上学の選択が可能になるという構造を取ることになる。このように解釈すれば、この両者は相互に抑制することなく共存できることになる。
第8に、道徳は一つである。現代では人権の道徳が絶対的なもので、意見の問題ではない。それは、すべての人間はすべての人間を助けなければならないという形を取る。道徳の基盤は、対話が意味するところにあり、対話者を自分と対等な存在と認めることで正当化されるという。
第9に、道徳が一つであるのに対して、倫理は個人の自由な選択に委ねられているので多数ある。各人がどのように生きるのかという選択に拠っているからである。人間が真に存在する在り方は、極論すれば、人間の数だけありうるだろう。そこにおける人間は自己原因(causa sui)(他のもの、外部のものに依存しない状態)であるとき、真の存在になると考えているようである。
第10に、快楽や幸福を目的に歩むのではなく、滅びるにもかかわらず人生と作品に最大の価値を与える歩みをさせるものを「悲劇的知恵」と呼んでいる。コンシュは、この人生を幸福の探求に費やすのではなく、幸福が約束されているわけでもない真理の探究や作品を生み出す創造的な活動の中に生きることを倫理にした(あるいは、倫理にすべきだと考えていた)。
第11に、人生の意味、作品の意味は、われわれに続く者たちへの愛の中にある。
続いて「プロローグ」について検討したい。
まず、形而上学をどのように定義するのかが問題になる。伝統的には、形而上学とは「存在の科学」であるとされるようである。しかし、コンシュはこの考えに反対である。なぜなら、形而上学は科学ではないからだ。科学は精神の一致を目指すところがあるのに対し、形而上学にはお互いに相容れない形而上学が存在し、それを認める。証拠に基づく証明を求める人は、科学をやればよいという立場である。科学と同じ基準で哲学を判断してはならないということだろう。
その上でコンシュは、「存在」という言葉よりは「現実」という言葉を好む。そして、形而上学を次のように定義する。形而上学とは、「そのものとしての現実(現実の本質のようなものか)と現実の全体(個別の現実の集合体になるのか)という2つの意味における現実についての理性による言説」である。もし「存在」という言葉を使うのだとすれば、「真に存在するもの(ontōs on)と存在するもの(on)にとって存在(einai)が意味するものについての言説」である、となるだろう。
すでに触れたように、唯一無二の形而上学は存在せず、常に複数存在する。コンシュはその中の神学化されたデカルト、カント、ヘーゲルらの形而上学を脱構築した。神という観念を放棄したため、それに関連した観念――例えば、絶対的真理、最高の理性によって支配される秩序と意味が保持された世界、本質としての人間(人間としての真理)など――も捨てなければならなかった。しかし、神学化された形而上学を扱う歴史家は、提示されたものの真偽を明確に言わない。そしてそれがあたかも真のように扱うため、システムを分解した後の諸要素はそれ以前の性質を保持したまま、すなわち神の要素が残ったままなのだという。
コンシュは神学化された形而上学を解体したが、形而上学そのものは捨てなかった。デカルトの出発点は神すなわち無限であったが、解体した後にコンシュが構築した形而上学の出発点もやはり無限であった。ただ、デカルトの無限は間違っていたという。デカルトの場合、神を人格としたため、必然的に有限性が含意される。また、神が世界を自らの外に置いたため境界ができ、神が制限されるからである。デカルトがやるべきだったことは、スピノザがやったように、神の中に無限そのものである自然を認めること(神即自然:Deus sive natura)だったというのがコンシュの立場である。
このようなことから、ピュシスを無限であるアペイロンと理解したアナクシマンドロス、すべての広大無辺さ(omne immensum)に眩暈を覚えたルクレティウス、ジョルダーノ・ブルーノ、パスカル、スピノザと同じ流れの中に、コンシュは自らを位置づけている。蛇足だが、わたし自身もその先に連なる道を歩み始めているように感じている。
参加者からのコメント
◉ 本日の原文テキストは、これまでで最もスッと読める文章だった。講師も含め出席者の皆さんもそう感じていたためか、読後の質疑応答・議論の時間が長めに取れたのが良かった。今後の会も楽しみになるテンポであった、というのが今回の会の感想である。それでは、内容について、興味をもった点をここに記しておきたい。今回の読書会で取り上げられたテキストは、コンシュがフランス語で著した著作のprologueの文章である。講師が和訳されているテキストも配られて、仏語でまず読み、和訳の助けを得ながらコンシュの考えを理解する試みを行った。
講師の和訳が一冊の本になるときが楽しみである。そう感じさせる名訳を今回のテキストの中からひとつ挙げてみたい。仏語原文のテキストの Page5 の 28) La sagesse est une éthique cohérente avec une métaphysique. のcohérenteの和訳である。講師は、「矛盾しない」と講師の和訳テキストでは訳して下さっている。読者への「優しい配慮」だろう、と会の中で感じた。日常フランス語の和訳ならば、「首尾一貫した」とでも訳すのであろうが、敢えて「矛盾しない」と訳してくださっている。このような配慮に、講師の「コンシュ」という哲学者をに興味を抱いてくれる人が増えてくれたらな、という想いが伝わってくる。このcohérenteという言葉。「コヒーレント」といえば、理工系には、単なる日常語の「一貫性」なだけではなく、専門用語でもある。レーザー等の専門分野では、その分野の定義で使われている。であるから、哲学者が哲学の著作のなかで、cohérenteと使っているからには、哲学的な定義とその定義についての様々な議論もわかっていなくてはならないのだろう、と読者は想う。会の後で調べてみたらやはりそのようであった。
といった感じで、ひとつひとつこれは「哲学用語」であろうと、一語一語調べながらコンシュの原文を熟読するのも一つの読み方であろうが、哲学科の大学生ならばその余裕もあるかもしれない。そうした余裕がない者でも、コンシュの思想をまず垣間見てみようとするならば、ともかくも、まず、ひととおり通しで読んでコンシュの哲学の概観をつかんでみることである。そうした観点から講師の和訳を眺めるならば、読者に対する講師の思いやりと気遣いが感じられる名訳なのである。「矛盾しない」という訳は、「まあ、ともかく、ひととおりリズミカルにコンシュの考えを読んで把握して概観できるようになってから、細かい、哲学的言葉遣いを覚えて行けばいいさね。」という眼差しが読者を見守っているように感じられる。この著作の和訳本が上市されるときが楽しみである。
◉ 昨日はありがとうございました。マルセル・コンシュは自然を無限そのものとして捉え、古典期のパスカル、カント、ヘーゲルらの人格化された神に基づく哲学を批判し、無限を制限するその構造に異論を唱えています。それは、神が意思や目的を持つ存在として想定されると無限がそれによって制限されるということだと思います。ただ、コンシュのいう無限は私の頭には明確なイメージとして形成されていません。到達し得ない無限、無限の外側にも何かが想定されるニュアンスのような、明確にイメージできるものではないのかもしれませんが・・・。
コンシュは自然を神格化せずに、無限の自然こそが哲学の基底であると主張しています。この自由な思考の拡がりに私は共感を覚えます。コンシュは、すべての物事の場、あるいは普遍的な包摂体としての自然の哲学は、精神の合意を実現できなければならず、グーロバル化の時代においては、哲学的エキュリズム(統合主義)を可能にするものでなければならない。それは、自然主義的な知恵なしには進まないとしています。これは宗教や文化を越えて自然という共通の現実に基づいて人々が理解し合える可能性があることを示しているのではないかと思いました。
そして、形而上学としての哲学は科学ではない。一つの哲学は理性だけでなく、人間のすべての能力を駆使して試みるものなのである。哲学は人生と作品に最大限の価値を与えることを目指すもので、それはわれわれの後に続く者たちへの愛の中にあり、作品もまた愛の中にあると述べています。このコンシュの「形而上学」のまえがきとプロローグには、自然から多くのものことを感受しそして瞑想を重ねた結果である、彼の哲学の集体成が示されていると思いました。彼の哲学への姿勢と彼の人格もここには滲み出てきているように私には感じられました。理解不十分なことも多く、コンシュの自然哲学をもうすこし掘り下げていければと楽しみにしています。有難うございました。
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