4-BC 「死ぬ」

Tod und Mädchen / Mort et Jeune fille (1915)
Egon Schiele (1890-1918)



第4回ベルクソン・カフェのご案内

ポスター
 
  <2回シリーズ> 

① 2018年11月9日(金) 18:00~21:00 
② 2018年11月月15日(木) 18:00~21:00
(1回だけの参加でも問題ありません) 


テクスト
 
Pierre Hadot
« Apprendre à mourir »
「死ぬことを学ぶ」 

Exercices spirituels et philosophie antique, pp. 48-60
(Albin Michel, 2002)

議論は日本語で行いますので、フランス語の知識は参加条件にはなりません。
このテーマに興味をお持ちの皆様の参加をお待ちしております。


会 場


会 費(1回分)

一般 1,500円 学生 500円
(飲み物が付きます)


参加を希望される方は、she.yakura@gmail.comまでご連絡ください。
参加予定者には予めテクストをお送りいたします。
よろしくお願いいたします。


(2018年8月13日) 

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会のまとめ

第4回ベルクソン・カフェ、初日終わる(2018年11月9日)
第4回ベルクソン・カフェの二日目終わる(2018年11月15日)

第1日目

今回は、死に対してどのように向き合うのか、どのように生きるべきなのかについて、ピエール・アドーさんの考察を読むことにした。初日は4名の方が欠席だったが、6名の方が参加された。お忙しい中、参加いただいた皆様に改めて感謝したい。

今回は中休みを入れて自由に話す時間を設定したため、講師も気分転換できたように感じている。そのためだろうと思うが、内容の濃い4ページのエッセイを何とか終えることができた。アドーさんのテクストでは、大略次のようなことが論じられている。

いつものように対立する概念で整理する。一つは不変の規範の世界であり、普遍的な理性を要求するロゴスの世界。それに対するのは、永遠の生成、肉体の変わりやすい欲求が齎す世界。
この対立の中で、ロゴスに忠実な人間は生命が危険に晒される。ソクラテスはそのために命を失った。これがプラトン主義の基礎を成している。つまり、優れた魂は肉体の生の上に善や徳を置く。ソクラテスは良心が要求することを放棄するより死を選んだのである。この選択はまさに哲学的選択で、哲学の基礎には死の鍛錬、死の学習があると言える。

プラトンの『パイドン』で論じられているように、問題となる死は魂と肉体の分離である。それは、魂が肉体の感覚に関係する情動を取り除くことである。偏った感情的な視点を排除し、思考を普遍的で規範的な視点に高める努力である。死の学習=哲学のためには、自分自身への思考の集中、瞑想、内的対話をすることが欠かせないということである。

「死の鍛錬としての哲学」というフォルミュールは、西欧哲学の中に大きな影響を及ぼした。プラトン主義に敵対するエピクロスやハイデッガーもそれを取り入れた。このフォルミュールを前にすると、すべての哲学的お喋りは空疎なものに見える。哲学者だけが敢えて死を凝視しようとする。そして、彼らが死について書いたものには「明晰さ」という特別の徳が見られる。

エピクロスによれば、死を考えることは存在の有限性を意識することであり、それが瞬間に無限の価値を与える。ストア派の人は、死の学習の中に自由の学習を見る。モンテーニュに、「哲学することは死ぬことを学ぶこと」という有名なエッセイがあるが、そこでセネカを剽窃して、死ぬことを学ぶとは隷属することを忘れることだと言っている。死を考えることは、内的生活の品位と水準を変容させるのである。

ハイデッガーにとっても、哲学とは死の鍛錬である。死を明晰に理解することがオーセンティック(真正)な自分を発見し、創造する切っ掛けとなる。つまり、死が自分の身にも降ってくることを心から理解した時、自分の意識は内に向かうようになる。真の自分を求めようとするのである。ここで問題になるのは、真の自分への道を開く「明晰さ」か、あるいはそこから目を逸らす「気晴らし」かの哲学的選択で、それは各人に任されている。

死の鍛錬とは「全体」を瞑想することと、個人的な主観から普遍的な客観性への移行とに関連する。それは純粋な思考の鍛錬のことである。哲学者のこの特徴は、古代には「魂の高貴さ」と言われた。それは思考の普遍性の果実である。哲学者が個性の幻想から思想を解放するかぎりにおいて、その思弁的で観想的なすべての仕事は魂の鍛錬になる。

これまでのところを簡単に纏めると、「死ぬことを学ぶ」とは魂から肉体を離すことであり「個人的」、「感情的」、「主観的」な視点から考えるところから「全的」、「普遍的」、「客観的」な視点から考えることができるように鍛錬することである。そのためには、自己の内面への集中、瞑想の努力、内的な対話が不可欠になる。


第2日目

二日目は2名の欠席があったが、9名の方が参加された。今回は参加者の皆様が積極的に文章を読むところに関わったためだろうか、いつになく質疑応答が活発であった。その中で、講師の解釈に誤りが見られ、宿題となった部分もあった。それから今回も中休みを設けたが、参加者だけではなく講師にとっても好い効果を及ぼしたようだ。最後まで読むのは難しいと予想したのだが、幸い、かなりはしょったものの終えることができた。お忙しい中、参加していただいた皆様に改めて感謝したい。

「死ぬことを学ぶ」の後半には、自然学(la physique)も魂の鍛錬になるというテーマがあり、3つのレベルに位置付けられる。一つの例としてアリストテレスの自然学を挙げることができるが、それはこんな具合だ。自然学はそれ自体が目的になる観想的営みで、日常の心配事を除くことにより平静と悦びが得られる。原因に遡ることができる真の哲学者であれば、自然はその素晴らしさを研究する者のためにあると言っている。

ストア派のエピクテトスは、我々の存在意義はこの観想の中にあるとまで言っている。つまり、我々は神の作品を観想するためにこの世に生まれたのである。そのため、奇跡的傑作を観、自然と調和して生きた後でなければ死んではならないと戒めている。この感覚はわたしの中にも生まれているので、ストアの影響が現れているのかもしれない。
 
二つ目は、フィロンやプルタルコスの空想的自然学がある。これはアリストテレスの自然学に比べると、科学の度合いが薄くなる。彼らの自然学は、思考の中で月や太陽や他の星と一体になるというような、あるいは彼らの体は地上にあるが、魂には翼が具わっていてエーテルの上を歩き、地上を観想できるというような考え方をする。まさに世界市民に相応しい。彼らはすべての人生を祝祭にするのである。それから、魂の鍛錬が空想の「上空飛行」の形を採ることがあり、高みから地上の人間的なものを見た時、そこに殆ど重要性を認めないようになる。

そして第三の段階は、普遍的思考のレベルに思考が上昇し、全体を視野に入れる時に見えてくる。この段階で、個別的なものを捨て、意識の内面性と全なるものの思考の普遍性に近づくのである。 ここでプロティノスの全なるもの(le Tout)が出てくる。プロティノスはこう言う。我々は元々全なるものであったが、そこに何かを加え、自分でないものになっていく。加えられたものは否定で、それがあるうちは全なるものではあり得ない。全なるもの以外のすべてを拒否することにより、成長することになる。全なるものが前に現れるだろう。

新プラトン主義は魂の進歩という概念を取り入れた。プロティノスの弟子で著作の編纂者でもあったポルピュリオスは、進歩を3段階に分類している。「体からの分離による魂の浄化」から「感覚的世界の超越」を経て、「知性と一者(l'Un)への回心」へと進む。「
一者」とは、存在するすべてが由来する存在を超えた第一原理を意味している。魂の進歩の実現にも魂の鍛錬が必要になる。

プロティノスは、ものの本質は純粋な状態で検討しなければならないと言う。それ自身でないものを取り除いて、そのものを検討するのである。それを外の対象だけではなく、自分自身に対しても行うこと。自分自身の純粋な状態を調べると、魂の不死性も信じることができるようになるだろう。プロティノス哲学において、魂の鍛錬の重要性は決定的である。魂の非物質性と不死性が見えないのは、この営みが欠けているからである。

魂の鍛錬の目的は、単に善を知ることではなく、善と一体になることである。そして、ある瞬間、最早自分自身ではなくなり、一者と一つになることもあるという。ここまで来ると、まさに神秘的な経験と言えそうである。


エッセイ後半では、魂の鍛錬の重要性とその実態、そしてその結果我々に起こり得ること(例えば、超越的なものとの一体化)について、特に新プラトン主義者(プロティノス、ポルピュリオス)の考えを引用しながら論じられていた。それから、エピクテトスの立場は多くの人を力づける可能性があるように感じた。それは、自然について観想することは我々の存在意義であり、奇跡的な傑作を観て、それとともに生きた後でなければ死んではならない、という言葉に表れている。


参加者からのコメント

● 昨日は大変楽しい時間でした。哲学とフランス語が同時に学べるいい機会でした。

● 昨日はありがとうございました。またの機会を楽しみにしています。

● この度は参考資料にもありましたが、以前のものを読み返すことが多く、これまでを振り返り、整理するいい機会でもありました。こうして自分なりにゆっくりですが考えるベースをもてることに感謝しています。ありがとうございました。また、来春よろしくおねがいいたします。

● 難しい文章の連続で、もう自分はやめた方がいいのではと自問する瞬間もありましたが、今回の授業で読んだ中で、一番自分に響いたところです。音楽の高鳴りのように感じました。訳は、、、間違えているかもしれませんが脳内変換ということでご了承ください、、。(勝手に調子を変えていてすみません)「...あなたがまだ自身の美を見つけられないのなら、美しくなるはずの彫刻家の像のようにするのですよ。像の中に美しい表情が現れるまで、取り除いて削ってなめらかに磨きあげ綺麗にするのです...」

● 先日は、カフェに参加でき嬉しく思いました。ありがとうございました。カフェでお話しをしながら以下のことを思って居ました。20歳代の頃、死を真剣に考えて、本当に色々と試みました。分かったことは自分の意志では死を迎えられない。自分の命は自分の所有物ではなく、生まれてからずっと思い通りにはならないということでした。どうして生きていなくてはならないのか。と言う思いを抱えながら、屋久島の原生林にある大きな岩の上にひとりで3時間、4時間横たわりました。身体が自然の中に溶けていく感覚がありました。自分が地球の細胞の小さな1つであると思いました。地球を構成する一部である以上は自分で死について決められない。人間の身体も頭も隅々まで、自分の決定で100パーセント変えることができないところに、考える価値がとてもあると以来ずっと思って居ます。来春もどうぞよろしくお願いいたします。

● これまで、矢倉さんのブログを参考にさせていただきながらフランス語と哲学に接してきました。今回のベルグソンカフェの内容は自分の興味にぴったりと合うものでしたが、私は発言・議論が苦手で、参加を最後まで迷っておりました。しかし、もし足手まといになっても、私に多大なよい影響を与え続けてくださる矢倉さんにはどうしてもお目にかかりたいという一心で(主人が付き添ってくれるといってくれたこともあり)、参加することができました。ありがとうございました。(ジャクリーン・ド・ロミィさんがブログを知るきっかけでした。)



フォトギャラリー

第1日目




第2日目 




(2018年11月16日)





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