11-BC マルセル・コンシュ



第11回ベルクソンカフェのご案内


マルセル・コンシュの哲学
――2006年のインタビュー記事を読む――

Entretien avec Marcel Conche, Philosophie Magazine 2006


講 師: 矢倉 英隆(サイファイ研究所ISHE)

日 時: 2025年3月4日(火)18:00:00~20:30

  会 場:恵比寿カルフール B会議室

渋谷区恵比寿4丁目4―6―1  恵比寿MFビル地下1F


参加費: 一般 1,500円、学生 500円

飲み物(コーヒー/紅茶)が付きます




カフェの内容

ベルクソンカフェでは、フランス語のテクストを読み、哲学することを目指しています。テクストは、わたしが関心を持っている現代フランスの哲学者マルセル・コンシュ(Marcel Conche, 1922-2022)の2006年のインタビュー記事(Philosophie Magazine)です。この中で、日本ではほとんど知られていないコンシュが「自然」「時間」「哲学と科学」「形而上学」などについてどのように考えていたのかが語られています。

参加予定者には予めテクストをお送りいたします。議論は日本語で行いますのでフランス語の知識は参加の必須条件ではありません。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

参加希望の方は、she.yakura@gmail.com までお知らせいただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。


会のまとめ




この日は霙が降る寒い日で、遅くには大雪になるという予報も出る中での開催となった。そんな中、大阪から参加された方を含め、皆様には感謝しかない。コンシュの名前を知る人がいない日本において、参加者全員が「コンシュ」という名前を語りながら会話している。その景色を、これは非現実(irréel)だと思いながら見ていた。

今回のテーマは、マルセル・コンシュという現代フランスを代表する哲学者の考えに触れるというものであった。題材としたのは、わたしがこの哲学者を知る切っ掛けになったPhilosophie Magazine 創刊号(2006年)に出ていたインタビュー記事である。よもや19年後にこのような形で同じ記事を読むことになろうとは、当時は想像だにできなかった。時の流れの説明は難しいが、自分の中では、飯田橋の日仏学院メディアテークでこの雑誌を手に取っていた時がすぐ横にあるという感覚の中にいた。

イントロダクションとして、このインタビューがどうして行われることになり、それがどのようなものであったのかについて、短い説明がついている。その中でわたしの目を引いたのは、コンシュが師と仰ぐモンテーニュ(1533-1592)の言葉 « À sauts et à gambades »(飛だり跳ねたりしながら)を使って、コンシュの話の内容が形容されていたことである。定められた道に囚われることなく、自由に話題を選び話を進める様子が伝わってきて、愉快な気分になった。予断だが、わたしがこの言葉を声にした時、「あーそう、えー頑張って」と聞こえてきた。

最初の話題は、コンシュを無神論的哲学に導いた、特にアウシュヴィッツとヒロシマの子供たちの苦しみの認識についてである。1974年に出した哲学的方向性に関する著書の中で、子供たちの苦しみは神の弁護人を困惑させるに十分である、と書いているが、その真意を訊かれている。それに対して彼は、哲学というものは一つの根源的な経験に揺さぶられることから始まるとした上で、子供たちの苦しみはいかなる視点からも正当化できないもの、すなわち「絶対悪」であると気づいたことが出発点になったとしている。最初この考えは、1958年の『哲学教育雑誌』に激しい調子で発表したが、翌号で哲学者でキリスト教に基づく教育活動家でもあるアルベール・サンドーズ(1908-1959)という人から批判を受けることになった。

コンシュの弁明は次のようなものであった。彼によれば、神という概念は哲学的概念ではない、つまり理性で分析、省察すべきものではない。そのため、神を正当化する人、神学者、神学的哲学者を批判する。サンドーズ氏が理解できなかったのは、コンシュ論文が、これらの神の弁護人が作り出した不純物で溢れている彼のキリスト教的信念を浄化するためのお誘いであるということであった。コンシュは、生活の一形態として、神の啓示を信じている人たちを非難するものではないと断っている。

コンシュの哲学は神学から切り離されている。と同時に、科学として成立するものでもないという。とすれば、コンシュが考える哲学とはどのようなものなのか。これが次の質問である。これに対してコンシュは、こう答えている。

彼はキリスト教の中で育てられたが、早くから世界を神学的に説明することを拒否し、哲学に向かった。周りに哲学という文化のない農村で育っているので、あくまでも自分の中にある理性の発露によるものだったという。彼にとっての哲学は人間理性のなせる業で、神に出会いようがない。つまり、真の哲学は神なき精神性を示したギリシアのものである。デカルト(1596-1650)、カント(1724-1804)、ヘーゲル(1770-1831)などの近代の哲学者はキリスト教徒で、理性を信仰を再発見するために用いた人たちなので、彼らは偉大な思想家であったかもしれないが、哲学者とはコンシュは見なしていない。その視点から真の哲学者と言えるのは、当時の社会に浸透していた一神教から自由になって思索したモンテーニュ(1533-1592)だという。

科学との関連で言えば、デカルト、カント、ヘーゲルらは、形而上学としての哲学は科学の形態をとっていなければならないと考えたが、これは根本的な誤りであるとコンシュは言う。形而上学とは、現実の全体に関する真理を発見する試みであり、科学のように狭い領域の中で(仮の)真理を証明によって所有するものではない。形而上学の方法論は瞑想であり、何が真理であるかについて断言することができないため、いくつかの形而上学が可能になる。自分の形而上学が表現するのは、変わりやすい意見ではなく、人生を生きる中で体得した確信(convictions vécues)である。他の形而上学と区別するのは、その哲学を生きることができるかどうかである。

コンシュは、体系や確立された哲学に警戒心を持っている。彼は、有限な存在の儚さを感じ続けていたという。その本質は知ることはできないかもしれないが、その現われは確実だとする。ヘラクレイトス(c. 540-c.480 BC)の「すべては流れる」は、すべては儚いと解釈されるが、「すべては流れる」ということは永遠だということに気づいたようである。そのことが存在するのである。これは、パルメニデス(c. 520-c.450 BC)とヘラクレイトスの統合、あるいは対立の克服と言えるのではないだろうか。存在に関連して、「果てしない時間」と「縮小された時間」について触れている。この時間の違いが分かると、永遠の中では我々の存在など存在の名に値しなくなるというモンテーニュの指摘もよく理解できるようになる。

次のテーマは、彼の形而上学の基盤である唯物論ではない自然主義の中身についてである。彼にとって絶対的なものは、アナクシマンドロス(c. 610-546 BC)の「アペイロン」(無限)を通じで発見したピュシスとしての自然である。この自然は因果関係により決定されたものではなく、創造性や即興を伴うものである。自然を詩人と捉えている。この話の中で、ソクラテス以前の哲学者とベルクソン(1859-1941)との間のつながりを指摘しているところには目を見張った。ただ、現代における自然は、歴史、文化、精神、自由などと対立するものと見なしている。

コンシュは農村の育ちで、ずっと自然の中で暮らしていたが、大学に入ってからは人工的な哲学の中に身を置いている間に、自然のことを忘れていたという。それを思い出させてくれたのがモンテーニュであった。この発見により、自分の本質的な基盤に戻ることができたという。そうすると、それまでのデカルトの「コギト」の世界よりは、ハイデガー(1889-1976)の「ダーザイン」の世界が重要なものに見えてくるようだ。

道徳についてのコンシュの考え方は、わたしの以前の受け止めとは違っているが、筋は通っているように見える。倫理とは違い、絶対的な基準が道徳で、その条件を満たさなければ倫理も成立しないという立場である。怪我をしている人を見れば、立ち止まって助けることは無条件の行いで、それはこれから観劇に出かけるかどうかを決める時とは全く異なっているという。

それから平和主義についても訊かれている。コンシュは正当な戦争があると考える罠には陥らず、いかなる戦争にも参加しないという。また、戦争によって民主主義を実現することは犯罪的だともいう。ただ、敵が国境に迫っている時、普遍的であるべき平和主義は敵を利することになり、自己矛盾に陥る。それでも平和主義を貫くというのがコンシュの立場のようである。

最後に、歴史に拘束される行動(action)と無歴史的な活動(activité)の違いについて触れている。コンシュによれば、哲学者は行動する必要はなく、思索しなければならないという。さらに、サルトル(1905-1980)は行動しながら真理を表現しようとしたが、この両者は両立できないとして、暗にサルトルを批判している。ヘーゲルのように、社会において何者かになろうとして自己実現を目指すという立場には反対する。むしろ、他者との関係における微妙なニュアンスを重視する生き方をすべきだと考えているようだ。




(まとめ: 2025年3月12日)



参加者からのコメント


◉ 昨日はベルグソンカフェにはじめて参加させていただきました。有り難うございました。マルセル・コンシュのPhilosohie Magazineのフランス語のインタビュー記事を読みながらコンシュの哲学に対する考え方を議論するという方式で、とても充実した内容で時間があっという間に過ぎていました。

コンシュの哲学と宗教に対する独自の見解、科学と哲学の違い、時間に対する考え方、行動と活動の意味、モラルとエティックスの違い、そして私の課題でもある真理としての自然とは何か、さらに真理と幸福について、死に対する観かたと話題は多岐に亘りました。テキストの中で私の印象に残ったコンシュの言葉は「自然の存在は、世界の把握を直接的なものにします。それは「主体」とか「表象」とかいう概念を無意味にします」でした。

マルセル・コンシュの『形而上学の翻訳を始められている由、早い刊行を楽しみにしています。さらには、その本を題材にまた皆様と議論が出来れば、もう一段深い現代哲学の理解につながるのではないかと個人的にはそれを楽しみにしています。貴重な時間をありがとうございました。

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