5-BC「読む」

Monet lisant(1872)
Auguste Renoir(1841-1919)


第5回ベルクソン・カフェのご案内


<2回シリーズ>

日 時: ① 2019年5月21日(火)18:00~21:00
② 2019年5月28日(火)18:00~21:00

Pierre Hadot  « Apprendre à lire »
ピエール・アドー「読むことを学ぶ」

Exercices spirituels et philosophie antique (Albin Michel, 2002)
pp. 60-74

申込みをされた方には予めテクストをお送りいたします。
1回だけの参加でも問題ありません。

講 師: 矢倉英隆(サイファイ研究所ISHE)

会 場:恵比寿カルフール B会議室

 東京都渋谷区恵比寿4丁目4―6―1 
恵比寿MFビル地下1F

会費(1回分): 一般 1,500円、学生 500円
紅茶かコーヒーが付きます。

参加を希望される方は、she.yakura@gmail.comまでご連絡ください。

よろしくお願いいたします。

(2019年2月2日)




会のまとめ
 
第5回ベルクソン・カフェ、初日終わる(2019.5.21)

今回はピエール・アドーのエッセイ『魂の鍛錬』(1974)にある「読むことを学ぶ」を選んだ。これまで、「生きることを学ぶ」、「対話することを学ぶ」、「死ぬことを学ぶ」を読んできたが、これが最後になる。参加予定のお二人が急用で参加できなくなったが、充実した議論ができたのではないだろうか。これまでは一文ずつ翻訳しながら読み進んだが、全体のイメージを掴むことがむずかしいのではないかと思い、今回は最初にパラグラフ毎の概略を話してから一文翻訳に進んだ。こうすることにより、聞いている方も理解が深くなったように感じるとのことだったが、何よりも訳している方に非常に良い効果があった。今回のところを簡単に纏めておきたい。

まず、これまでに見てきた魂の鍛錬の実践方法の多様性と豊かさが簡単に纏められている。プラトン学派、ストア派、エピクロス派、プロティノスなどが出てくる。しかし、このような多様性の底には方法と目的に重要な一致が見られるという。方法に見られる共通点は、説得のための修辞法と弁論術、内言に熟達する試み、精神の集中で、探究した共通の目的は自己向上と自己実現である。さらに、哲学的回心の前後の状態が記述される。前の特徴は、感情が優勢であるため心配事、不安の中にあり、自分自身ではなく、真に生きてもいない。しかし、すべての人はこの状態から解放され得るとすべての学派は考えている。回心後に見られるのは、真の生活に到達し、自己を向上し、変容させ、完璧な状態に近づくことが可能になる。それでは、真に生きるとは具体的にどのような状態を言うのだろうか。簡単に言うと、人間の偏見や社会のしきたりではなく、人間の本性である理性に則って生きることだという。

魂の鍛錬の過程を表すプロティノスの「自分自身の像を彫刻する」という言葉がある。究極の目的である自己実現をよく表していると考えられている。絵画が加える芸術であるのに対して、彫刻は取り除く芸術であるとされる。大理石の中に既に存在している像を、余分なものを取り除くことによって顕わにするのである。人間は感情の虜になり、自分とは関係のないもの、自分で手に入れることができないもの、不必要なものを得ようとするが、それらはその性質ゆえに自分から逃げていくもので、そうなれば不幸になる。幸福になるためには、自分とは関係のないものを取り除き、真に自分自身であるところのもの、自分で手に入れることができるもの、すなわち本質に還らなければならない。それが、自立であり、自由であり、自律なのだという。これを実現するためには、自分をじっくり眺め、対話し、自分とは何なのかを考えることが不可欠になるだろう。そのためにも魂の鍛錬が必要になると捉えることができるだろう。

魂の鍛錬の結果辿り着くのは知恵で、人間的完成の理想だが、そこに至るのは神だけで、人間は辿り着くことができない。ただ、そうではあるが、そこに向かうように努めることはできる。それが知恵を愛すること(philo-sophia)であるという。哲学とは、辿り着けないことは分かっているのに、そこに向けて歩む営みだということになる。そのような生活が哲学的生活だが、それは日常生活とは乖離している。逆に言うと、哲学的生活をするためには習慣やしきたりの中にある日常生活を離れなければならない。既存の価値との逆転がそこに生まれる。その上で、哲学的生活を常に維持することの難しさについても論じられている。その困難さゆえに、哲学者は時々日常に降りることになる。懐疑派に至っては、哲学的に生きることを拒否し、日常に生きる人のように生きると宣言したのである。

古代における真の哲学は、魂の鍛錬であった。そのため、当時の哲学理論は魂の鍛錬のためのものであり、教義の体系ではなかった。この点を理解していなければ古代の哲学は理解できず、後の歴史家の誤解の原因にもなっているという。


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第5回ベルクソン・カフェの二日目、終わる(2019.5.28)

従って、プラトンの対話篇であれ、アリストテレスの講義録であれ、プロティノスの論文であれ、プロクロスの注釈書であれ、古代の哲学作品を読む場合には、実存的な側面に注意を払わなければならない。これらは一つの学派から生れ、そこでは師が弟子を教育し、変容と自己実現に導こうとしている。そのため、モノローグで書かれていても常にダイアローグの要素がある。内容の不一致や矛盾はこのようなところから出ているのである。例えば、アリストテレスの場合でも、ロゴス(システムでもある)は講義の具体的な状況によって変わってくる。一つの講義の中では統一性を保っているが、それが他の講義にも当て嵌るとは言えない。それは当然で、アリストテレスは現実の完全な体系を提示しようなどとは夢にも思っていなかったからである。スウェーデンの文献学者インゲマール・デューリングはアリストテレスの特徴を次のように分析している。「アリストテレスは常に一つの問題について議論していて、答えはその問題に対してだけ有効である。彼の研究方法は、常に新しい角度から問題に迫る(別の出発点に立つ)ものである。従って、常に新しい思考に入るのである」。彼は自分の講義を「方法」(methodoi)と呼んでいたのは意味が深い。これはアリストテレスに限らず、大枠では古代の哲学者に当て嵌まるものである。それから、聴講者の魂のレベル(初心者、進歩した者、完成の域に達した者など)に応じて、注釈方法や教義の内容が変わっていたようである。

これまでの例で見たように、哲学はもう理論的構築としてではなく、新しい生き方と新しい世界の見方を教える方法として、そして人間の変容の試みとしての姿を見せる。しかし、現代の哲学史家は一般的にこの重要な側面に注意を払わない。それは、哲学を純理論的で抽象的な営みとして捉える中世から近代の見方に合わせているからである。この見方が生まれたのは、哲学がキリスト教に取り込まれた結果のように見える。キリスト教はその初めから、魂の鍛錬の実践である限りにおいて哲学であると自称していた。そして、中世のスコラ派により、神学と哲学が明確に区別されるようになる。神学が至高の学問となり、哲学はキリスト教の道徳や神秘主義の一部になった魂の鍛錬を失い、神学に概念的、純理論的な材料を用意する「神学の僕」の地位に陥ったのである。近代に入り、哲学が自立を取り戻した時もこの傾向を保持していただけではなく、さらに先鋭化された体系化の方向に進化した。哲学が意識的に生き方や世界の見方、具体的な態度を問題にするようになるのは、ニーチェ、ベルクソン、実存主義によってである。しかし、古代思想の歴史家は哲学を純理論的なものとする古い概念の虜になったままである。魂の鍛錬が主観的な側面を導入するため、構造主義的な説明モデルに合致しないからである。

こうして現代に戻ると、冒頭で引用したジョルジュ・フリードマンが自問した「20世紀にどのように魂の鍛錬を実践するのか」という問題が現れる。アドーは西欧には豊かで多様な伝統があることを言いたかったようだ。ストア主義やエピクロス主義のように一見対極にあるような哲学も我々の内的生活には欠かせない。ヴォーヴナルグは「全く新しく独創的な本は、古くからの真理を愛させるようにするものだ」と言った。古くからの真理は時代を経てもその意味を汲み尽くせない。それは理解するのが難しいからではなく、むしろ非常に単純なのである。しかし、それを理解するためには、それを生きなければならないからである。その上で、アドーはこう言う。
「我々は”読んで”人生を送っていますが、最早読むことができなくなっています。つまり、立ち止まり、我々の心配事を解放し、自分自身に還り、細かいことや新しいことを探究することは脇に置いて、静かに瞑想し、反芻し、テクストに語らせるようにすることができなくなっているのです。これは魂の鍛錬ですが、最も難しいものの一つです」
本を読むとは、日常から離れ、自分の中に入り、事実を追い求めるような読み方をするのではなく、瞑想し、反芻することにより、テクストが自ら語るようになるのを待つことだと言っている。そして、ここでこれまで長々と語ってきた魂の鍛錬との繋がりが現れる。つまり、読むことは魂の鍛錬だったのである、しかも最もむずかしい。このエッセイは、ゲーテの次の言葉で終わっている。
 「読むことを学ぶためには時間と労力を要するということを人は知りません。そのためにわたしは80年を要しました。そして、そのことに成功したかどうかさえ分からないのです」(エッカーマンとの対話)


参加者からのコメント


● 楽しい一時を過ごすことができ、厚く御礼申し上げます。それにしても、「読書論」のお話と予想して参加しましたが、仏教の「修行」や「悟り」にも関係すると思われる予想外の内容で、本当に有意義な一時でした。本日、ご紹介した「多中有一、一中有多」について拙ブログ記事で述べています。記事中のいくつかのリンク先が無効となっていますが、ご笑覧いただければ、幸いです。

今回は、「読む」というテーマでしたが、テキストを読み進めるうちに、アドー氏から古代哲学者たちの書へと誘われているような感覚を受けました。私の日頃の本の読み方は目的的で、知るため、調べ物としての「狭い」本読みですが、アドー氏が示唆するのは、「新しい生き方と新しい世界の見方」を教えてくれる、「人間の変容」の試みとしての哲学としての「読む」。それは、かび臭い物ではなく、また知識の詰め込みや薄っぺらいテクニック論でもなく、豊かな生を生きる可能性があることを私に気づかせてくれそうだ、と感じました。友人との語らいのようにテクストを読みたい、と思いました。 

ベルクソン・カフェに出席する度に強く感じることは、テキストの選択眼の確かさと出席者を快く挑発してくることです。今回も拙い語学力で格闘しながらもその結果得られた(と錯覚している?)ものは、読む前には想像し難い、意外なものを齎してくれました。初めて知ったヴォーヴナルグの「全く新しく独創的な本は、古くからの真理を愛させるようにするものだ」は痺れるような卓見ですね。ニーチェをフランス語で読みたくなりました。
 

フォトギャラリー

 初日(2019.5.21)



二日目(2019.5.28)



主宰者からのコメント

なぜ読まなければならないのかについての考えを簡単に拙ブログに纏めました。より確かな繋がりを発見した思いです。ご参照いただければ幸いです。
(2019年6月10日)











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