7-BC 「幸福と反哲学」




第7回ベルクソン・カフェ / 第9回カフェフィロPAWL


日時: 2023年3月1日(水)18:00-20:30

アラン・バディウの幸福論を読む(2)
――幸福と反哲学――

(参加予定者には前もって原文をお送りいたします)

講師: 矢倉英隆(サイファイ研究所ISHE)

会場: 恵比寿カルフール B会議室


会費: 一般 1,500円、学生 500円
(コーヒーか紅茶が付きます)


カフェの内容

 ベルクソン・カフェでは、フランス語のテクストを読み、哲学することを目指しています。またカフェPAWLでは、生き方としての哲学を考えています。今回も合同開催といたしました。前回同様、現代フランスの哲学者アラン・バディウ(Alain Badiou, 1937~)による「幸福の形而上学」Métaphysique du bonheur réel (PUF, 2015)を材料に進める予定です。

 今回は、第2章「幸福を試される哲学と反哲学」を読みます。特に、彼が言う「反哲学」とは何を言うのか、そこから見える哲学の多様な在り方、さらに幸福の意味するものについて考えを深める予定です。

 議論は日本語で行いますのでフランス語の知識は参加の必須条件ではありません。参加予定者には原文をあらかじめお送りいたしますので、議論のテーマをお持ちいただけるとカフェが活性化すると思います。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。


(2023年1月7日)



会のまとめ






今回は前回に続き、アラン・バディウの幸福論『真の幸福の形而上学』を取り上げ、その第2章「幸福を試される哲学と反哲学」読んだ。特に、彼が言う反哲学の中身と、そこから見える人間の生き方、そして幸福への道を探ることにした。

冒頭に、反哲学者の定義が出される。それによれば、自らの実存の出来事を概念的な構築と対峙させる哲学者で、彼にとっての真理は頭の中で構築されたものではなく、出会いや実際に体験したものでなければならない。バディウが反哲学者と考えているキェルケゴールはこのあたりの事情を、すべての真理は「内部に」あり、「主観性そのものが真理の顕著な特徴である」と言った。

ここで注意しなければならないのは、真理など知り得ないとする懐疑主義者や真理はあくまでも他のものとの関係の中でしか決められないとする相対主義者、平等主義に陥りがちな今日の民主主義者、さらに文化の多様性や雑多な意見を支持する多文化主義者のような人間ではない。反対に反哲学者は、最も厳しく、最も不寛容な人間なのである。

バディウは反哲学に対する哲学の特徴を「概念的、体系的、科学的」であるとし、ご本人は哲学者に属すると見ている。その「哲学者」に対して反哲学者は、執拗に情け容赦ない闘いを挑んでくる。彼らの文章スタイルは魅惑的で、その誘惑に屈するわけにはいかないと自らに言い聞かせるが、その中でもバディウの心を捉えるのは、次のことである。
主体は、選択という緊張と逆説的な要素の中で初めて、絶対の高みに立つチャンスがある。そして、その選択を促すのは偶然の出会いであり、そこからしか真の人生、真の幸福は現れない。
その上で、すべての個人は多かれ少なかれ密かに主体になる能力を持っており、人生のあらゆるエピソードが、どんなに些細なものであろうとも、絶対的なもの――それは真の幸福を意味するのだが――を経験する契機になり得るとバディは言う。地位も資格も契約も関係ない。平等は極めて重要で無条件である。反哲学者は深い意味で民主主義者なのである。すべての真の幸福は必然から手に入るのではなく、偶然の出会いの中で決せられる。

我々が生きる現代には大きな罠がある。何かが在るという理由だけで、在るものの前に我々はなぜ屈服しなければならないのか。ルソーは「すべての事実を横に置こう」と宣言したが、それは彼の方法序説である。民主主義の不変のルールは言うまでもなく、グローバリゼーションや近代化の制約により、当たり前のようにいろいろなことが我々に義務付けられている。政治的、経済的リアリズムは、そこに在るものを所与として服従するよう唱える。反哲学者は、それらに背を向けることが絶望的ではあるとしても、主体への道、すなわち真の幸福への条件だと説く。さらに、こう続ける。もし君がそうあるべきだと命じられた者以外になりたいのなら、出会いだけを信頼し、公式に禁止されているものに忠誠を尽くし、不可能の道に固執することだ。 道を外れよ。

身近な日常の平凡な「満足」を乗り越えて真の幸福に至るには、激しくも過酷な道が待っていることが見えてきた。「出会い」「選択」「主体」などのキーワードが心に残る会となった。





(2023年3月2日)


「出会い」再考(2023.3.2)



参加者からのコメント


● 「真の幸福への試練としての哲学と反哲学」というタイトルは挑発的である。
また、
“J’appelle <antiphilosophie> cette sorte particulière de philosophie qui oppose le drame de son existence aux constructions conceptuelles »

は哲学の、特にドイツ観念論に対する宣戦布告とも言って良いと受け止められた。絶対的概念があって、それに合わせて思想体系を構築する。しかし、カントの「物自体」概念もヘーゲルの「絶対知」概念も、(触れられていないがマルクスの「唯物論」も)認識可能な概念として論理構築することに成功したとは言えない。

これをバディウは徹底的に批判する。

“pour qui la vértité, absolument, mais doit être rencontrée, expérimentée, plutôt que pensée ou construite.”

すなわち、人が真理を知ろうとするならば、その生において、思想や概念ではなく、「主体的に」出会い、経験しなければならない。そのように還元論と全く反する思想を展開した、パスカル、ニーチェ、キェルケゴール等とともに、彼は自身を反哲学者である、と定義するのである。

“Question de vie ou de mort, le pari, le choìx, l'imprérieuse décision. Le sujet n'existe que dans cette épreuve, et nul bonheur n'est concevable si l'individu ne surmonte pas le tissu de médiocres satisfactions où se tient son objectivité animale, pour devenir le Sujet dont il est capable - et tout individu dispose, plus ou moins secrètement, de la capacité de devenir Sujet.”

生における選択は常にぎりぎりの決断であり、主体はこの試練を通してのみ存在する。『動物的客観性』が持つ「つまらない満足」の網を乗り越えて、「自分が可能な主体にならなければ」いかなる「幸福」も考えられない。これが本来の人間の在り方であり、そして、全ての個人は、多かれ少なかれ、主体になる能力を持っている。これが、人間の生に対する高らかな讃歌であり、『反哲学者』として主体的に生きることの勧奨である。

実際自分自身の人生において、どの瞬間も、どの選択も、主体的になろうとすることが、絶対へと近づく唯一の方法であり、それが人間として生きるということであり、そのような生が真の幸福である、という主張である。概念や論理で「なんとなく」辻褄を合わせようとする、というのは生きたことにはならない。

 この考え方が禅に似ていると出席者の感想があった。当初は深く考えなかったが、この発言は当を得ている。仏教はあらゆるものに仏性(仏になる可能性)が備わっている(如来蔵)と説く。その可能性が立ち上がってくることを仏性生起と呼ぶ。このプロセスは、他力ではなく、主体的な菩提の発露と様々な修行が必要である。

しかし、一般に想像されるような瞑想や学問によってのみなされるのではない。禅とは、事性と理性をつなぐという言語化できない過程の実践を通して、作仏(仏になる階梯をふむ)を進める手段として発展した。従って、概念で思考実験を行うのではなく、常に現実の、刹那に、あらゆる事象において正しい認識と正しい行動のもと精進することが修行として要求されるのである。 

碧眼録に、以下の公案がある。

又僧問。如何是道。州云。牆外底。僧云。不問這箇道。問大道。州云。大道透長安。

僧の「(仏)道とは何か」との問いに、禅の高僧である趙州従諗が答える「垣根の外にある」

道に特別な方法や秘伝があるのではない。現実の(家の前にある)道こそ、絶対へと続く唯一の方法なのだ、「大道は長安に透る」と。









Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire